今年は1曲しか観てないというのに(しかもTV放映w)、
そして、こんなへっぽこお能鑑賞ブログだというのに、
たくさんの方に訪問していただきまして、身に余る光栄です。
さて、恒例(?)の年間アクセスランキングです。
10位 歌占
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6位 松虫
5位 邯鄲
4位 紅葉狩り
3位 道成寺
2位 西王母
1位 夜討曾我
夜討曾我、まさかの三連覇です!
さて、今年一年を振り返ってみると。。
3/11の地震と津波、そして福島原発の事故は、
平和ボケしまくっていた私を強烈に一撃し、
この瞬間がどれだけ儚く脆く奇跡的なのか教えてくれました。
一日一日、一瞬一瞬がとても愛しくなり、
また、これまで「自分」として生きてきたはずの自分を
実はちゃんと見てなかった様に思え、
自分を丁寧に観察するようになりました。
そんな中、やはり「お能」というものは
私にとって、かなり衝撃が強いものなのです。
なぜこんなにもお能に惹かれ、揺さぶられるのか、
お能を観ている時の自分を観察し、まとめてみました。
お能を観ると、心の奥深くが揺さぶられます。
お能で揺さぶられる心の奥深くというのは、
感情の元のような感じです。
自分では、その元まで探ることができず、
自覚できるのは表面に出てきた感情です。
その、表面にでてきた感情というものを観察してみると、
意に反しているものがあったりします。
意とは多分、教育や環境や社会経験などで身につけた
知識や常識や処世術とでもいうような後天的なもので、
感情と意の方向性にズレがある時には、
どちらの選択肢も選べ、意を選ぶことがほとんどですが、
でもときに感情で倫理や道徳感すら越えることも(笑)
感情と意は根拠が別で、しかも感情>意な感じ。
子供なんかをみてみると、泣いているとあやされ、
笑っていると喜ばれるけど度が過ぎるとたしなめられ。。
という感じで、社会人として機能できるように
感情をコントロールするように躾けられます。
そうしていつのまにか、人は意に沿って
社会人として生きるようになるのでしょうが、
それで感情がなくなってしまうわけではなく、
また感情には明確な方向性があるあたり、
なにかメッセージ性を感じます。
感情は、刺激に反応してでてくるものみたいですが、
社会人としての躾け(笑)のせいか、感情に鈍感になっている上、
日常的な細かい感情は把握しづらいし、
観察しやすい激しい感情は、なかなか簡単にだせません。
そこでお能なんですが、お能には、私自身の経験や、
それに伴う感情などを投影しているというか、
その手のものが手玉に取られて勝手に導き出されている感じで、
感情を誘発する刺激物として、手軽ながら深くて、
リサーチに都合がいいみたいなんですね。
お能ドーピングによるボーリングで
感情や感情の元のあたりを炙り出してみたら、
感情の先に何かあり、そこから情動が発信され、
それが方向性をもつ感情として発動している感じなんです。
そして、お能のヘビロテで、感情の方向性の根拠となりそうな
係数とでも呼べそうなものが感じられるようになってきています。
余談ですが、私が『夕顔』や『半蔀』なんかと
シンクロできないのは、これ系の曲に私の係数が
含まれていないからかと。
係数という視点でまわりをみてみると、
植物や動物は、係数がわりとシンプルで、
彼らの係数に沿ってベストを尽くしていて
迷いがないように見受けられます。
一方、私の係数は抽象的で、
私には、係数の方向性で構成されている部分と、
意に沿って構成されている部分があり、
妥協や折り合いで混沌としています(笑)
ヒトには、係数に沿った方向性のある感情を受信しておきながら、
必ずしもそれに従わなくていいという
選択の可能性や能力があるあたりに、何かの作意を感じます。
選択の可能性により、多面的な結果のフィードバックを
得られることで、抽象的な係数の把握を可能にするためでしょうか。
五感を持つ体も、感受性に差があり、係数です。
自然の中にフラクタルが見出せるように、
選択の可能性や体の違いは、多様性があるようでいて、
人口全体とかで見ると、所詮はフラクタルだったりして(笑)
それはさておき、仕組みが複雑な生命体ほど、
それぞれの個体がオリジナルな係数を備えているかと思います。
オリジナルな係数で可能なこととは、
オリジナルな認識を得ること。
シンプルな係数の生命体からは確固とした認識が、
抽象的な係数の生命体からは混沌とした認識が生まれ、
生命体の数だけありえる多様性のある認識が発生します。
この設定は、私たちが、多面的なフィードバックで
自分の係数が認識できる構造に似ています。
各生命体センサーによる多種多様な認識で、
何かが自らの係数を認識できる仕組みになっていて、
その構造を稼動させるために、係数というフィルタをもつ
生命体に情動を発信しているのかも。
神は自らに似せて人間を創った‥でしょうか!?(笑)
この何かを神などと呼んでしまうのは簡単ですが、
現時点での掌握はここまででして(爆)、
この先には一体何があるんでしょうねぇ〜(笑)
さて、こうしてみると係数とは、
それぞれの生命体として生まれてきた動機とでも言うか、
フィルタを持つ生命体として生じる触媒なのかもしれません。
そしてこの解釈で世界をみると、悲観的にみれば、
私たちは、世界を認識するためのセンサーでしかない。
楽観的にみれば、選択能力を持つセンサーならではで、
感情のメッセージに乗って愉しめばいい、
ということになりそうです。
にしても、お能をこんな風に観てるなんて、
私はほんと、風情や情緒が皆無です(爆)
世阿弥の言いたいことはわからないけど、
観阿弥の思いはわかるような(笑)
これまでにたくさんの人がこのシステムに気がついていて、
例えばアボリジニやアフリカの古くからの民族のしきたりや、
ガムラン、神楽などは、リズムや唄や踊りを続けていくと、
感覚を超えて変性意識になることを利用していて、
これは、システムの受動的なアレンジ方法なんじゃないかと思います。
観阿弥はそこに、能動的に作用しやすい構造を組み込んでお能を創りだし、
能楽師さんたちが650年もそれをまんま伝えてきてくれました、THX!
時を超える観阿弥のなぞなぞ‥いや〜お能っておもしろいです!
信長さんは、敦盛を舞いながら謎を解いたのでしょうか!?
そして、能動的アプローチの行き先やいかに!?
そのうちモーフィアスに逢っちゃったりして(笑)
福島原発の終息と被災地の一日も早い復興を祈りつつ。。
では皆様、よいお年を!(^-^)